【研究note】上本俊平氏寄贈 旧笹川コレクションの一点について —中国彫刻をめぐるささやかな近代史—
大阪市立美術館が発行している定期刊行物「美をつくし」に、学芸員による研究ノートを掲載しています。これまでに掲載した内容をnoteでもご紹介していきます。
今回ご紹介するこれら二つの作品は大阪市立美術館蔵、中国南北朝時代・北魏の石造如来三尊像である。[上図]は山口謙四郎氏(1886-1957)の収集による山口コレクションの一点であり、背面に刻まれた銘文によって、その製作時期が今から1500年前の北魏・正始元年(504)とわかる基準的な作品である。一方[下図」は平成15年(2003)に上本俊平氏よりご寄贈いただいた作品の一つである(以下、上本像と称する)。
上本像は光背と脇侍立像の大部分が失われ、頭部が別像のものに換えられているが、両像を見比べてみると、中央の大きな如来坐像や台座の形状などが似通っているのがおわかり頂けるだろうか。具体的には、左手を斜めに下げ右手は胸前で掌を見せ、衣の裾は膝下で縁のある大きな襞で表され、台座では中央に小さな博山炉、その上には横長の棒状部材が彫出されている。さらには左手や膝頭における石表面の剥離状況も共通している。このような特徴から、両像は同時期の同一地域、もっと言えば同じ工房・石工?によって造られた「兄弟」像の生き残りなのかもしれない。
さてこの上本像は、大正〜昭和の初めに笹川慎一(1889-1937)が収集した百数十件の美術作品に含まれていた。現在それらは、当館ほか大阪市立東洋陶磁美術館、京都国立博物館、天理大学附属天理参考館、ネルソン・アトキンス美術館(アメリカ)など各地の美術館やコレクターの所蔵に帰している。
建築家・笹川慎一の略歴は次の通りである。明治22年、東京・本郷区西片町(現、文京区西片)に生まれ、学習院初等科を経て早稲田大学建築科に進み、大隈講堂や日比谷公会堂の設計で知られる建築家佐藤功一の指導を受けた。卒業後、住友銀行東京支店の嘱託技師となり、翌大正10年(1921)に大阪へ移り住友合資会社工作部の社員となっている。昭和7年(1932)、大阪・天王寺区茶臼山の住友社宅より郊外の熊野田村(現、大阪府豊中市上野西)に建てた自邸へ転居し、翌年には長谷部竹腰建築事務所へ移ったが昭和12年に急逝した。
笹川は芦屋市立美術博物館に復元された画家・小出楢重のアトリエや、国登録有形文化財の大阪・岸本瓦町邸などで知られる関西で活躍した建築家であるが、その設計は建物内部の美術装飾も包括するものであったらしい。笹川が設計した神戸・御影の個人邸宅のために、小出楢重が描いた「壁面装飾のための7枚の静物画」が姫路市立美術館に所蔵されている。
そしてもう一つが、東洋古美術コレクターとしての顔である。笹川の没後に刊行された事実上の売立目録『笹川慎一コレクション』[昭和14年(1939)]の序文では、梅原末治が笹川邸を訪問した際のエピソードを記しており、翌年の追悼文集『笹川慎一追憶集』では小山富士夫が「私は嘗て笹川さんのコレクションほど旗色鮮明であり、明確な個性と逞しい精神力をもった蒐集を見たことがない。」と述べている。
最後に山口謙四郎との接点であるが、笹川と石川確治が編集した『支那上代彫刻』第二輯[昭和7年、聚楽社]には山口収集作品が掲載されている。さらに、戦中戦後と山口コレクションが床下に秘蔵されていた山口邸書斎の設計者は笹川であったという。
山口謙四郎、笹川慎一両氏が自らの中国彫刻コレクションについて語りあったか否か、今となっては知る由もない。いずれにせよ両氏は、似通った中国彫刻作品を、おそらく比較的近い時期に収集していたのは事実であろう。しかしその後、上本像は長らく行方がわからない幻の作品となっていた。『笹川慎一コレクション』刊行以降、この作品が取り上げられたのは水野清一氏の論考「北魏石仏の系譜」[『仏教芸術』21号、昭和29年(1954)]のみであるが、なぜか誤った所蔵者名が付されている。
山口氏、笹川氏そして上本氏の手を経て大阪市立美術館の所蔵するところとなった両像が日本にもたらされた経緯は、それが同時であったかも含めて判明していない。私達の計り知れない長い旅を経て、ひょっとすると1500年ぶりの再会かもしれない「兄弟」像は、中国彫刻の常設展示において常にとなり合って展示されている。
◇参考文献 山形政昭「建築家笹川慎一をめぐって」[大阪芸術大学紀要「芸術」2、1992]
大阪市立美術館/齋藤龍一
(2010.9「美をつくし」174号 研究ノート)